第16回 「すべては言い掛かり」@(世界戦略情報「みち」平成19年(2007)9月15日第257号)

「偽証」と「疑わしい証言」と
 アーノルド・ブラックマンは確信的な日本悪玉論者であったが、彼だけが特別の存在だったわけではない。東京裁判が行なわれた当時の一般的理解は彼の見解と大差はない。したがって、ブラックマンが日本を悪玉と考えたのも、誹謗中傷に満ちた法廷証言の数々を疑うことなく受け容れた結果にすぎない。ただし、ジャーナリストとしてそういう態度が失格であることだけは、確かである。
 支那事変の発端となった盧溝橋事件について、検察側証人王冷斎の証言を彼は何の疑いもなく紹介している。
 盧溝橋事変は、吾が政府の地方当局に何等通知もなく、日本軍の演習に端を発した。(これは)支那と締結した条約上、法的理由はなく不法である。
 これが事実無根の嘘であることは、今日ではすでに明白である。わが軍は所定の手続きを経て演習に臨んだのであって、周辺の支那軍がこの演習に備え種々の指令を受けていた事実もこのことを証明している。
 この程度のことはちょっと調べれば、また、証言から導かれる現場の矛盾点からいっても、すぐに分かることではなかったか。だが、王の証言が証拠として採用される一方、それが嘘であることを立証しうる日本側の証拠は却下されてしまうのである。
 もしもブラックマンが本物の見識をもつジャーナリストだったら、弁護側の却下された証拠も併せて検証して、それが果たして正当な判定かどうかにまで踏みこんで評価しなければならなかったはずである。それができないのであれば、ただ裁判を傍聴し結果のみを速報する単なるリポーターと何らも変わらないと言うべきだろう。
 だが逆にいえば、彼のような存在がまた、この裁判の一方的な性格を雄弁に物語っている。
 証言をもう一つ、取り上げてみよう。漢口の米国商工会議所で会頭を務めたアルバート・ドーランスは、揚子江に接する税関の波止場に日本軍が数百の支那兵を集めていた、と証言しているのである。
 此の日本の兵士達は、支那兵と申しますよりは支那の私人でありまして、少くとも普通の平服を着て居りましたが、此の人達から……。
 この支那兵の中から手当たり次第に三、四名ずつ選んで水際へ誘い、水中に蹴落として銃で狙撃する光景を、ドーランスは観たというのである。
 だがこの証言はまったくもって不審である。いったいなぜ彼は、支那人の一群を支那兵と考えたのか。平服着用の支那の私人について、なぜわざわざ「支那兵と申しますよりは」と断わっているのだろうか。そこに、どのような意図が込められているのだろうか。
 日本兵がドーランスに「この一群は支那兵である」と説明したとでも言うのだろうか。
 私服の支那兵なら、便衣兵、つまりゲリラであるから、処刑されても当然なのである。だが、それは違う、明らかに民間人だった。すなわち、処刑は違法である、と彼は言いたかったのか。もしそうであれば、その根據は何か。
 このような疑問がいっさい問われず、証言は単に日本兵の残虐な行為の証拠として聴取された。ブラックマン自身もこれに何の疑問も抱かず、残虐行為の有力な証拠と見て、得々と紹介しているのである。それは裏付けのない、単なる憶説にすぎないのに……。
 これが東京裁判なるものの実態なのである。そこに確かに見えてくるものは、何がどうあれ日本を断罪せずには措くものかという連合国側の意志と、それに適うものならば質などいっさい問わずに証拠と見なすという理不尽な態度、そしてこの復讐劇に快哉を叫ぶリポーター並みの似非ジャーナリストの存在、という構図である。
 そうした軽佻なリポーターの存在が日本を断罪したくてうずうずしていた連合国側にとって実に便利だったことは疑いを容れまい。だが一方で、そうした便利屋すらもが眉を顰めるほどのゴリ押しが行なわれたという事実も、その便利屋によって焙り出されたのであった。
 さて、ドーランスの証言について、そういう出来事が本当にあったかどうかはさて措いて、一般論として考えてみたい。というのは、数百名の群衆が、三、四名ずつ仲間が殺されるのを見てのんびり温和しくしていたのかという疑問への回答が証言にはないからだ。
 この数百名が便衣兵であったなら、処刑は当然の処置である。ただ処刑の形式としては、極めて不適切だったとの批判は免れまい。
 だが、これも戦争の一面なのである。以前にも書いたことだが、戦争という大事業は必然的に道徳の堕落を齎す。略奪行為は言うに及ばず、虐殺も多発する。こうした犯罪と無縁の戦争も、軍隊も、ありえまい。戦争は悪だ、というのは、このためである。
 そして、この「集団処刑」の問題も、戦争の一つの面であったことは間違いないが、その形式が異常だという理由をもって、これを虐殺だと決めつけることはできない。
 連合国の記者(リポーター)たちは検察・被告双方の攻防についてスコアカードを付けていた。この一件では、被告側が重大なダメージを受けた、と思ったという。だが、果たして彼らは、米軍が各地の戦線で非戦闘員の婦女子を火の中に追いやり、逃れ出た幼児の手足を引き裂いて火の中に放り込んだり、そして戦線の背後で捕虜となった日本兵を勝手気儘に殺しまくっていたことを、まったく知らなかったとでも言うのだろうか。その件については、リンドバーグの前線視察報告に詳しく告発されていたのに……。虐殺とは、まさにこのような殺人を指す言葉ではないのか。
 一人の米兵が、その獲物の頭蓋骨を恋人に贈った。米国で大手の新聞が、頭蓋骨を前にして微笑む女性の写真を大きく掲載した。これこそ人道に悖る犯罪ではなかったか。このような背徳の行為をあえて犯した国に、果たしてわが国を裁く資格があったといえるのか。連合国の記者団がこの事実を知らなかったとは言わせない。なぜなら、この写真のことは、当時の日本の国民すべてが知っていたという事実があるからである。
 揚子江岸の日本兵は、銃剣で串刺しにして引摺ったわけでもなければ衣服に火を放ったわけでもない。スタイルは一風変わっていたとはいえ、銃撃で処刑を実施したにすぎない。十字架の前に立たせようが、後手に縛って馬の背に乗せようが、処刑は処刑である。ギロチン台の上に引き据え、首を台に押しつけて刃を落とす処刑(ごく最近まで仏で行なわれた)と較べて、どれほど残虐といえるだろうか。
 日支事変は「暴支膺懲」という言葉とともに拡大した。幣原の軟弱外交が効果を示すどころか逆に支那側をつけ上がらせ、挙げ句に残虐な邦人虐殺がつづいた。そのきっかけが第二の尼港事件と呼ばれた通州での虐殺である。
 当然、わが軍にも報復という考えが保持されていたであろうし、その上、南京陥落時にも、惨殺されて晒し者にされた日本兵の捕虜が多数発見され、怒りは増幅されていった。
 漢口は国民政府の政治・軍事上の拠点であった武漢三鎮の要衝都市である。南京陥落も徐州攻略も終戦の決め手にはならなかった。そこで武漢三鎮での決戦を日本軍は目論んだが、包囲した百余万もの大軍にまんまと逃げられて、戦争の結末が見えなくなった。
 この一件の背景事情はこんなところである。日本軍としては、感情をぶつける相手がいないという状況だった。
 そう考えると、河畔での狙撃による処刑は、むしろよく自制された行為のようにも思えるではないか。
 これは乱暴な意見に聞こえようが、それも戦争の厳しい一面であることは、ぜひ理解して欲しいと思う。そして、(自国兵士の行為も含めて)そういうことに対して理解力をもたぬ記者連は、戦勝国の驕りによって日本の為政者を見下し、この些細な事件を嬉々としてスコアカードに記入したという次第なのである。
 東京裁判が同時に連合国側の犯罪を併せて審理していたとしたら、彼らは果たして顔を赧らめて下を向いたのであろうか。それとも、「それも戦争の一面さ」と嘯いたであろうか。

共同謀議と戦争計画
 戦争は誰にでも簡単に始められると書いた。だが、それには準備が要る。
 かつてわが国の自衛隊幹部が有事の際の対処計画の研究をしたということで咎められた(三矢)事件があった。
 自衛隊の最大の任務は国防である。当然、有事の研究は行なわれるべきであるはずだが、それが咎められたのだ。事ほど左様に、わが国の常識は大きく歪められた。その原因の一つが、この東京裁判だったのである。
 事もあろうに、わが国は世界征服を企図し、そのための共同謀議を長年にわたって行なってきたとして、断罪を受けたのである。
 確かにわが国には、計画というには余りにも杜撰であったが、戦争計画が存在した。だが、連合国側の特に米国にも、戦争計画はあった。
 現在の米国には、将来に起こりうる第二次日米戦争に備え日本再占領計画があるし、その想定の中には対英戦争すらもあるのだ。だが、それをもって、米国は世界侵略を計画している、とは言えないのと同様、わが国に戦争計画があったからといって、世界の征服を目論んでいた、などとは到底言えないはずである。況や共同謀議など、実際には有りえない話である。
 もしも本気で世界征服を企んでいたとすれば、真っ先に対米戦争の計画が策定されていなければならない。米国を倒さずして世界を征服することは、不可能だからである。
 だが事実としては、わが国には対米戦争計画は昭和一五年以前には存在しなかった。ようやく一六年になって、対米戦争も止むなしと決意するに至るのである。この一事をもってしても、世界侵略の共同謀議などという疑いがいかに荒唐無稽だったか知れよう。
 しかし日本は有罪でなければならなかった。そこで、ドイツとの同盟と、それを推進した駐独大使の大島浩とが、俎上に載せられることになる。